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上から霊が注がれるまで(イザヤ32:15)
先週もう一度日本における最初のプロテスタント教会である海岸教会を訪ねた。今度はイギリスからのお客さんを案内してちょっと外だけを見ようとした。しかしご親切な海岸教会の姉妹が中を見せながら、説明してくださった。その説明の中で、前回聞き落としと内容が耳に入って来た。日本で最初に洗礼を受けた9人の青年のほとんどは将来が約束されていない、その存在が薄くなる藩から来た人たちである。そして彼らは長男ではなく、次男、三男の人たちであった。神はこの世の強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた(Tコリント1:27,28)というみことばが思い起こされた。そういえばダビデはサムエルを迎える祝宴に招待もされなかった末子であった。ヤコブも長男ではなかった。神は弱い者をあえて用いてくださる。弱い者は上から霊が注がれるまで自分が砂漠のような状態であることを認める。バラ宣教師の塾に集まった青年たちが申し出て始まったお正月の祈祷会はイザヤ32:15のみことばから始まった。いま海岸教会の庭には石の聖書が開かれている。開かれたところにイザヤ32:15のみことばが刻まれている。自分の心は砂漠のようである、そして自分の周りは砂漠のようであっても、上から聖霊がくだるとその地にはいのちの川が流れ出す、そして砂漠は肥沃な地に変わり、森と帰られる。